昭和45年2月5日  筑水連合会会長 平田繁吉氏の講和



おめでとう御座います。只今親先生より、ご紹介頂いておる訳で御座います、ご承知で有りましょうけれども。
本教の、この教会のこの施設を支える維持と云うものが教規に中に書いて有ります様に、教会は願いで信心の稽古場と云う事で御座います。
何時も私は考えよりますが、神社ではない訳ですね、教会と云う意義がはっきり、めいめいの魂に確立しとかんと見当違いになる訳です。
只今親先生から、ご紹介頂きます様に、甘木の先代、今の親先生の、御祖父様に当たられます方、私、数えの十四の春からお参り頂かして頂いて、今年はもう五十六年になる訳です。三十二違います、三十二違う年上の親先生に、ご縁を頂きました、それも、私 六男で有りますが、四人目の上から四人目の兄が、手を患いまして、手が痛くて、仕事がされんように成ります、色んな事で治療致しましたけれども、思わしくなくて、やはり甘木のある医者に通ってをりますと、その医者の言われる事に。
あーたの病気は医者では治らん、と。自分は参った事は無いけれども二日町に金光様が有るそうに聞くと、そこで一つおかげを受けなされと、お医者に導かれて参った、かってが解りませんから、参ると此処の親先生が結界から「何の用か」とこう聞かれる、「こっち来てみー」と、それこそ私はこうして手を患って通うて御座います「そうか」「それでは一つ仕事をして居らんならば、毎日が暇だから一つ、此処に一つ自分が特別の用の無い限りは、此処に座っとくから、此処で良く話しを聞きなさい」と参りに来いと言うちゃあない、此処に話しを聴きに来いと、それからも何も、げしゃも大概いろんな事もして居るから、そう云うものがどう言う事か解かって居るから一つ、そう云う事を忘れて、一つ私の云う事を聞いて、そういうふうにやってごらん、言われるもんだから、毎日病気の事を考えてもどうにも成らんと云う事で、参って居る内に、約四年ぐらい掛かった、その治らん病気が、半年で治っておるですね。
ほんな何か解らんもんな無いと話を聞いて、聞き、そして参りゃあおるけ拝んじゃ居るけれども、拝めとは先生は一つも言われない、「私の話をよう聞きなさい」と、治るとも治らんとも仰らん、聴きなさい「仕事をしょらんならいいでしょ」言う、だから毎日御結界に話しに行って居る中に、結局治ったちゅう訳です。
今もその兄がもう兄弟八人ですけど、其の兄と私と二人しか残って居ません、色々私から言いますと、人間的に決して、しっかりしたと云う、兄じゃないですね。兄弟八人の内でどちらかと言うと、その人が一番・ごつのべ・ですね、訳の解らん事を云う人ですけん、信心しときゃ、今言う様な私共の基礎ですね、その人が、その病気から始めて家に信心が生まれたと云う事に成る。何時も、今はそんな事はあまり致しませんけれども、建築なんかしますと、地鎮祭なんかですね、そう云う時には、必ず祝詞にはその、・平田まさお・が病気をのんで平田の家に信心が出来た、非常に私はそのー、有り難い事ではあるけど、有難う無いですね、その兄さんがそれ程の人格で無いのに、どんな事があってもその・平田まさお・と言うて祝詞に載るですね、いわば・妬いた訳ですね、私しゃ、人間ちゃーそう云う汚い根性があるもんだから。
兄さんがその偉いことしたんで、俺かた達やー、俺りゃー頭は上がらんがと思うた、如何なる時もその、平田まさお・の事が祝詞に書かれておる、云う訳ですけれど。その後そう云う事も無くなりましたけれども、そう云う事で有りますから、其の兄が私に、一つ、あんたもお参りしなさい、連れて行こう、今考えるとやはり月次祭の日であったですね、今は十時でありますけれど、其の時分は午後の一時からでした、参るとお祭りが有る。
今まで私が、考えたのは色んな、此処あたりで言うと、田主丸の・さんやさん・とか、あるいは甘木の・こんてらさん・とか、ごぎょん様・とか、あるいは私の郷里のほんこにある・たまたれ・とか、と云う、宮にお祭りには参っておるけれども、たましなんて聴いたこと無いですね、お参りすりゃそれで済んだ。
しかもところに、立ちながら、ポンポン拝んで行きゃーそれでお祭り、参ったちゅ訳です。
さあーも、それから色々弾んで帰るちゅう、そんでまー教会に参りますと、お祭りの時間より話しの時間が長いと云う、甘木の教会の特徴は、話しが長いちゅう事がもうみっぷりの特徴です。今はそう云う事は有りませんけども、昔は徳は講師と云うて、本部から其の時分では、館長閣下と云う資格の有る人が特に、その教師を差し向けられた、特派講師と云う、それでその有名な、先生が見えて随行まで付いて見える、そう云う事が年に何回か有りましす。
甘木の教会の教会のその、風評と言いますか、定評と云うか、どんなに長く話しても、話し飽かないと言うのが特徴です、甘木の教会ではもう、話しは日本一聞ききると、所に依ると、ま少し長く話すともう信者さんが疲れてしまう、処が甘木は何時間話してもびくともせんと云うのがもう特徴ですね。
と云うのが、もう常に先生がそう云う癖を付けてある、教会に参って話を聞かずに帰る者は、町に出て物を買わずに帰るのも同じ事であるという。
基本です、私は何時それをふうやと云う、葉書で兄の名で来ますね、大祭なんか来ます、こうして何月何日には、何々と云う大祭がある、大祭の案内の小さい所にちょっと書いてある、大祭後説教があると書いてある、だからその、大祭が見出しだもんだから、大祭は一時間掛かったなら、話は十分かに十分でいいはず、字から云うとですね。
所が小さい書いて有るとが三倍位長い訳です、お祭りはだしごと成って話が本もんに成って、そんならそんなふうに、こーも大祭書いて説教はしっかりあるぞと書いちゃーないです。必ず案内を見て見ると、その大きな字で案内じゃね、大祭、何々大祭、案内しとって、小-さい字でちょちょっと書いてある。大祭後説教、大祭語の説教、大祭が本もんです、所が此処に出て来られると、今言うな事に「教会に参って話を聞かずに帰る者は、町に出て物を買わずに帰るのと同じ事に成る」「町には何しに行くか、物買いに出て買わずに帰れば何に成るか」、とこう言われる。
帰りきるなら帰ってみー、ちゅ顔でじーとこういっちょう見られる、こうだけこうみて抜きも差しも成らん、こうしてこうー見られてしもうて、さあ是からは俺の番だちゅて、それがこっちは気に入らんですね、聞き
とらんもんだから、こっちゃー、参ったからもう、それから先きゃあーた達ちゃーすまんが忙しかろうけれども、今日はこう言う事でお祭りを、例えばその、滞りなくご奉仕が出来たから、折角の参拝だから一つ、ちょっと暫く、私がその話したい事が有るから、一つ付き合うて下さいと挨拶さっしゃれー、それは事と次第ではね、相談されれば、聞くも聞かんもある、それをその高飛車にそのー、帰りきるなら帰ってみろちゅう態度でしょ。
うんーちゅてその咳払いの多して、そしてまー少し、しっかりした話しならまだしも、居眠り被った様な話ばっかりじゃ、自分だけ解かったごとしてこっちには解かりょりゃせん、我がだけ解かって、自分だけ喜こうで、こっちゃもう堪りゃせん、足しゃー痛いしですね、良か事は一つもない、何一つとしてその楽しい事ありゃ
せん、そーしてそのえー気に成ってその、自分だけそのー、もー後には目を潰されしもうて、目を開けられんそーで先生目を瞑れば気の毒かち、云わしゃった、良う解かりょうらんから気の毒かと云わっしゃる。
あたら過ぎるから、こーして、こーまい声で、もう眠るごと成ったら余計小もうなるもん、声が、ちょっと目覚ますと気の毒かちゅて、居眠り、いびき描くと、こーこーして突きなさいといわっしゃる、隣の人を、親切が足らんと仰る、隣の人が眠りょうるとに、いびき描きよるとに、人にゃ妨げになる、何で突きなさらんかち、仰ってこーこーして、話をすると止めらっしゃる、誰かそこ話をしょるとだまーて、本人達は気の付かんで話をしょると、先生は話を止めて御座る、話の終えるのを待っとりますちゅて、そう云うとこは親切な方でしたね。
それけん眠ってええぜー、働きよりゃー教会来て眠るのが本当ぜ、眠らんとなら終わりと仰った、働きよる者んが身体休むと眠るぜ、眠ってでもね、聞けると仰った、此処に来ることが尊いと云う考えですね、今考えると、此処で座りきるその時間を尊いと取ってあるです、こっちは人間で聞きよるとじゃけんで、俺が聞きよるだから、てんで話しにゃならん、神様が一つも出て来なかったですね、私そのこうして、その時分には、先生の話頂きよる時分には、有り難かったなんて事は、もう失礼な話じゃけど、大体はですね、無かった様に思うですね、そして同んなじ話でしょうが、もおー何か次が出れば、又出たちゅうな考えかたなんです。
一つも有り難ないもん、変わった話なら聞ききりますけど、同んなし話なんです、これが聞ききるは嘘ですよ、付きようたんだ、付き合わなしょうがない。
おとの次に助けてもらおうと思うちょるもんだけ、何かこっちも付き合うちゃらにゃなるまいと思うちょる、あれが先生の流儀だから、それ壊しゃこっちの相談に行ったときには具合が悪ろかろうごたる。付き合うてあげよる、話聞きよるとじゃないも、話しゃ聞かんけども、まさかの時には付き合える訳だもん。
皆さんはそう云う事はなかろうけども、私しゃもうはっきりそうしとる、初めて、親先生を失のうて見て、ぼつぼつものを云うて来たんですね。
私しゃ親の居るうち、親が有り難いなんちや、すこーし利口過ぎると思う、私の両親の時もそうでしたけれども、決して両親の居るうちに、両親が子のために有り難いと云うふうじゃ受けて来ん、うるさい親父ですね、もう難しい事ばかり言う、始終こっちの欠点を突いて来る、いい事は一つも無い、云う事は当たり前と思うとるから、けーさにてごらん悪い所だけ見よる訳、又こいつら言よると、隣の叔父さんならほんな物分りが良うて、家のやつが一っち番ごっつりおうてとこう云うとる、今考えると死んで見たら、親ほど大切な親は無い、もう親ほど自分を思うてくれとる人は無いのに、実際生きて居る親を見てそれ程有り難い事は無かったです。
今は有りますよ、先代もその通りですね、けれども、もうどー云うてもそれしか付き合いようが無いんです。
まあ其の後私は大変こう、お供さしてもらい、一番お供をさしてもろうとります。そう云う事ですが、まあその時分にはですね、多少親先生が解かり始めたですね、決して云われん、一口ものです、平田さん、はいちゅと、こう云う事ならちゅので、一つのせーともえーとも仰らん、こう云う事が有ったと、引っ掛けられた訳ですね、ぽーんと投げかけられた、またそんな事云うてからと、それでえー訳です、決して俺はこう云う男で、こう云う事言いよるが、本気で聞きよるか、なんて言われる事は一遍も無い、こんなこつがあったじゃどういう事が有ったじゃん、始終投げかけですね、非常にこのはずが無い、ところがその無いはずがその素晴らしいはずになっとります私の。
私はそれで、私の格言に、聞いて置け解かるはおかげ受けてからと、こう云う格言を持っております、聞いておかにゃいかん、今の自分に理解できる事が聞く必要無いん、出来ないことじゃから聞かざるを得ん、又私はそれで、金光教はどう云う事かと云う、親先生の心、心が事が、其れを実践する事だと私は思っとります。
そう思うですね、私は、教祖のものは勿論有ろうけれどもですね、教祖のものが自分に理解出来れば先生は要らない訳なんです、基本的なものは、はっきりさせにゃいかん。
相撲があー云うふうに沢山、東京相撲にま部屋がありますね、今度、柏戸でもまた部屋を別造るでしょ、横綱になれば部屋を別作る権利が有るです。
だから、昔の柏戸から、あそこ伊勢の海ちゅう部屋から分かれて、鏡山と云う人が何かの部屋を作るでしょ、鏡山部屋が出来る訳です。
出来る誰の、相撲取りが出来るかと、師匠の子が出来る訳です、だから皆違うでしょ、昔は相撲四十八手なんていう手がね、今は何百あるか知らんけれども、結局その部屋の師匠が持って居るものを身に付ければそれでいいんです、意味は違うでしょ、見てご覧、相撲を、そりゃー親父はそんな事しょるけど、俺はそんな相撲は取らんちゅなこっちゃ無い、よう知っとるその師匠ちゅのは、弟子を、それじゃからま、弟子は別個に考える必要は無いんです、もう師匠を俺が物んになすと云う根性のある人が一番強い人じゃ、それでま強い人は皆実意が有る、詰まり、金光教で云う実意がこの様に言う事を聞くと、師匠の云う事を聞くと云う、相撲取りが一番強うなる、だから金光教は私は同じだと思うです、私はそれだからそのー、こりゃもう親先生の一つ、一番その今居られんけれども、おられんちゅのは身体だけ、金光教は形がなけりゃにゃいかん、形が無くなって本当の金光教じゃもんね本当言うと、そう云う道じゃからね、私は今も先代を見つめて居る訳なんです、先代を見つめたけー今の先生がおっちゅ訳じゃ無い、そんなふうにこう区分されるふうに無いはずですね、いずれにしても、平田が一番俺に似たと、言わるりゃいいんです、一番似ちょると思うとる、其れが私の生命、そりゃー私は本部でやかまかですよ、色々云っても、前の高橋教官に電話したら喰ってさがる訳じゃ無いけれども、私があることを言うたら大変激昂された、何時も讃えてあるけれども、どうするか、こう言われたけー、ちょと待って下さい、どうするかと云うても、私しやーの進言をそーそのけたたましゅう言われてもどーにもならんちゅーわけ、いいとか悪いとか私は是しか無いんだから、それをそのーどーするか今変えなきゃーこう云う折角のこの懇談会が是ぎりでもう打ち切るんだと云う、そりゃー大変だとちゅうに、それ程難しけりゃーもう、こう云う事はもう言わんごとしましょう、私の精神をその気持ちを、どうするかと問われてもそりゃーもうどうにもならんこりゃ、私はも安武松太郎から使えて来た、私の精一杯の力で吸収しただけのものが出とる訳じゃから、他からどんな批判されようが私はびくともしないです、そんな簡単なもんじゃ無いと私は思う、私の魂をだからそれ程、教官に気に入らんことなら、今日ぎりそれにゃ触れますまいというた、それでこらえもらわにゃどうするかちゅ云われても、その、そりゃーもうどうにも成らないと、けどそりゃーもういいと思う、悪うーても仕方が無い、何 十うー年て、先生に似ろーにろーとしてるから、もういいとか悪いとか批判力は持たん訳です、そなーいいとこだけ似ろーじゃ。わしゃー悪いことから似ていいごと何時も思うちょる、悪いことでも、親先生の悪いことはええですよ、私のええことより、私の一番ええ事と、親先生の一番悪いかと思うてもそれん方がええんだから、私はええ方が難しい、悪いほうから真似して行こうちゅう考え方です、あれは良く、なら親先生こうみてから、自分の頭で何が出ますか、考えてひきょうしとる人は私は終わりと思うてですね、こら先生でも解からん事にはひっついちゃいかんと思うて、いいとこ云うたら何が判断力が有りますか、人間、そう云う考え方でね、聞いても何にも成らんと私は云う、初代白神先生が言われるごとその、神縁はおぶの三つの心に成る事ですと、三つの心でね、批判力もたんです、いい 悪いが判る、だからでたらめにそのー、只そのぶを受け入れた気持ちですよ、良し悪し批判力がのあったらその吸収力が遅くなる、だから青年期に成ったら皆進まん、子供の夢は夜叉じゃないでしょうね、鳩ぽっぽ、でも桃太郎でも歌うでしょう、聞ききるでしょう、幼稚園なんかは、ああ云うのは馬鹿な話を聞くけーじゃん、あたしだん子供の時分には、いろんな事がある、今の様な事じゃ無いけど、ほとんどの様にでたらめでしょう、嘘ばっかりじゃ無いですか、それ本気で聞いとるじゃない、聞いとらん、桃太郎は終わったじゃろか、花咲か爺でも、今まであれはもう、もうー本当に聞きょらん、小さいからほんとに聞いとる、そうでしょう小さい時は休みなさいち解からんから、わあーわあーわくるちゅー、ところが五つになるとわーわー見るちゅ時が来ると、わーわーみせてくれちゅー、もうそうなったら、いかんですね、親の手に負えん訳ですね。そうでしょう、ところが子供ん我がとこ来っと思うけん、眠っとなりゃー眠らんとその目をつむちょると眠気がさっさ良くなる、早く寝せようと云う方法で云うたんじゃが、親父がおまえー、お母さんが教えっよたじゃないか、おれに、孫が、子供そえなこと云う者んは居らん、そえな事云うのがおらんが、そげなほーがぱーじゃん、そげなこつ、そう云う処が有るです、だからその思うのが批判一丁持たずに、出来けんと云う、そう云う私しゃねー教えはのーち聞いたんじゃけー。私は親先生と苦楽を共にすると思うた、其処まで時分が、はまらきゃねー、どうしても批判しますよねー、誰よりも自分はその利口に渡ろうとすりゃーそのー、いくら先輩と云えども聞き憎いです。来てみらにゃ解からんも、来て解かる事がどう云うとこで判断されますか、私しゃーもう親先生ともー、この先生とももー、しとたならもう共に苦楽を共にすると、先生はもう私が、非常に心配かけたのを、親先生が亡くなる時に、私も死にゃせんだろうかと、ずいーと付いて遊そーだですよ、後で聞いて、そのしきらんけどねー、そんなふうにかねは、思うたちゅうに、こりゃー私しゃーもー親先生そりゃーなら、非常に批判もあります私やー、あんまりへんしとるですねー、そこにそのー利口さが無いもんね、人間、利口さが無いもんだからやっぱり嫌われます、しかたがないですね、私にその持ち量じゃから、私は、私に課された課題だと思っている、顔の違う様に、神の使い様も違うんがから、俺りゃーこれで行くんだと、わしゃー云う根性ですね、それしか私に力が無いもの、いかに云うてもろても、そんな事云うて迷わされるぞとこっちっやー、と云う私しゃーあられたらそつに私、親先生がそー云う方じゃったですねー、御本部に行ってですよ、御本部に修行に行ってある時に、三十五年ですから、私が丁度三十五年に生まれとるからね、其の年に、ありゃー後継者の第二期生じゃった、やっぱ六ヶ月行ってある大きな問題がある訳、云うのは、桂先生がとてもそのー本部の建築が余にも貧弱だからなんとか一つ願いかけて宮崎から、宮崎ちゅうて有名な松が有ります、日向松と云うて、今も本部に残ってます、日向松、その松をその建築する為に、お供えがして有る、ところが佐藤四九郎が里の金光家からちゅこたるその人だから、どうしても金光教はその学問が必要と云う事でその、学校を建てる事に成られる、その材料にその桂がお供えしたその、材料松を使うちゅうわけ、それから桂先生は大反対、そう云うその学校ごときに俺が命を掛けて、神様にお供えするにその、お社建ててもらう為にお供えしたとにその、もってのほかじゃと言う事ですね。
だから、真正面から対決される訳です、桂先生、佐藤四九郎、其の当時は四九郎じゃない、佐藤先生と言えども此のことはまかり成らんと、対立された時に親先生が其の事を薄々聞かれて、奥城に行かれて願われた事は、教祖様事の如何は知りませんけど、どうか師匠の意見が通ります様と御祈念された、そこが甘木の先生の私は偉いとこと思う、もう桂親先生のご意見がいいか、そんな事は別と、安武松太郎が此処に居るちゅうことは、
桂松平じゃないと云うせいめいじゃから、事の如何は別じゃと云う、どうか師匠の意見が通りますよと、御祈念される、ばれて云う練らんならん、そう云う修行をされた、ところが実際は負けて御座るですね。
そう云う事はどうーもないです、唯その、其の時にどうかと云うのが、此処が皆さん一つ問題です其れを必ず引っ掛ける、引っ掛けるからそー行きゃー有り難いと、俺が是だけ願うたのに、とうと神様も神様じゃねーかと、聞いてやらんじゃねーかと、こーれが残る後味が悪い皆、今日でもそうですよ、皆さん朝参りしてこうして参りょうるとお陰を受けるちゅのを引っ掛けちょると、神様がふるわっしゃる、だからみな是だけやったけれどもが出る、えー朝のこの貴重な時間に朝参りの出来る様な自分になれたことが有り難いで切っときゃいい。
それ切っていっとらん、なにかちゃ、こうなりたいと持って来よるだから、それが教えなけりゃーこんなことはないそう云うものをもっとるものは、まだしんいんじゃないそれー、それだけ金光様は信心の的なしじゃー其の事、其の事が、有難う成らにゃーいかん、それがややもするとひっかかっとる、ひっかるのもやもう
えん、引っかかるものを持って来よるんだから、それが解消しとらんのだから、こりゃも私の体験だもん、皆さん見るだけじゃ無い、しかし顔にゃかいてある、こして見てみると、そう云う物はどうも、なにかと話を変えて見ると、ドンと来るですその人の顔に、そのくらいな事は解かりますけども、いずれにしてもですね、親先生がそれだけ、一生懸命寝らずに御祈念されたから、悲観され取らん、是だけ一生懸命なっとるのに師匠の意見が通らんとは、俺は修行には来取るけどこの神様はたいがいな神様になっとらんも、ただそう云う事が当たった時に、どう有ることがせいじんかと、こう云う事がしゃんとせにゃいかん、朝が来たときにどうある事がせいじんだろうかと、云う事ですよ皆さん、それをなにか、何かに引っ掛けてみーなつながっとる、こうしょうるとこーなるんだ、こうーするとこーなるんだと、そー云う事がこんことなしに思っておるから、とんでもない事に私達は成ったんだと、私は、だからとうとう私はそれ程の親先生日本一の先生と知っとる、それでも四十六でとうとう差し上げたじゃないですか、おりゃーいかんと、俺はこりゃそう云うことの願わぬ人間じゃないとだから、もう油やは一つ家内に、ならそのー財産の一切やってその時分六つの会社を経営してますけど、六百人からの職工さんが居られた、そのまま家内とその四十六の十月にまあ今でいやあ、入道したです、もう道にはいってしもうていいと、せんえいも油屋はもうしとう無いから、ああた上げるから、あたしが是だけくれに使い銭だけは下さいよ、云うて四十六のい十月に私はもうだいしはさって、今日二十四年になる、そう云う経歴だからですね、これは参考にならんかも知れんけれども、それがですねー非常に大切だと思う。
もうそれ位にもう自分の意見が通らん事が私はおかげじゃった、もしその間に私の神さんご啓示の考えをその考えがもし通るとどうでしょう、今日になって、どう云うんだろう、神様も神様だけど、俺も頑張ったと、云う事に成ったらとんでもない事が生まれる、だからもう私が差しなげた事がしゃ、今日のおかげの受け方がちがうと云う訳ですね、もし皆様の中に神様に御祈念するけど、俺も頑張るんだがそう云う程度で成功したら何が出るでしょう、それを神が嫌うわけ、その程度のおかげしかやらんわけ、と思う。
ここがその私は、先代を頂ききっておらんけれども多少でも、練らしてもらう事が出来たと思う、思う出すね皆さん。よーと皆さん今日は、そんな話をしょると時間がね、遅くなる人も有りましょうけども、いずれにしても、本当にまだ皆さん序の口ですよ、皆さん御互いが、金光教はねー、解かったの知ったのと云っよっと、可笑しゅうなるですよ、また一生やっても自分一代で自由するものじゃない、子や孫へ三代続いたならでしょうが、七十八節の三大続いたら神のきかんに適うじゃろう、それを一代どころで、一代どころじゃ、半代で片付けようと思うちょる、あーた顔に書っちゃるよ、請求しよるよ大概。俺は何年前の是だけやりょるとに、もう請求する気分が有るじゃない、とても自分でね三代かかって、神の気感に適う、三代でんいい加減じゃない、本気でやって三代でっしょうもん、そんな大掛かりな事を、自分が生きりゃ半代位で、何年位で片付けてやろーと思うとる。
そうはいかん、とんやが下ろさんちゅう事です、まあそう云う気持ちで一つ、ま今日まあこの位で今朝は打ち切っとくけれどもね、結局私は、親先生を現しきりゃー、最大の成功に成ると思う。
親先生、私しゃー自分の方から、家内がざっぷりですがね、親先生、経済の立て方、それがもう自分に解からんじゃ無いけれどね、その家内を見てですね、十九の冬に、数えの十九の嫁に行って、家内が信心の無かった家内が、私んちに来て、やーやーやーや、私と言いながら、かなり喧嘩もしたですよね、あれがどえらい下でね、あれが云うなら糞ど腹がええもんじゃけん出やせんですね、早よう出とれりゃー呼び直しとるか知れんけど、出やせん、出るごたりゃー何時も、風呂敷抱えて出るとこまでは行くです、ほんでこっちの気身引くですね、こっちも引かりゃーせんばて、出られたら困ると思うても、そん時なったらもう産後の終わりで、もう絶対に私は頑張る、そう云う事で決していいことは無かったが今日、立派なことが生まれてきた、其処まで行かなきゃねー、なにかしーじーも生かじりして、もう初回から仲良う出来とる。
都合良う行くと思うとる、行かん事がおかげですよ、我々ごときで行くならどう成りますか、そん位な金光教
と思うとりますか、私は今甘木で「神幸会」と云うのば、三十、青年をのけてから数えの五十五歳までが神幸会ですか、五十歳までですか、その会の一番油の乗った時にです、あんた達が喜ぶごとあるなら金光教なら俺止めたちゅう云う、どん位思うごたならんかそれ、聞かしてくれ、それはおかげを受けよる、おかげを受けるなんて思うちょうる事、あてが外れとるちゅ事、一番あんた達が基礎時代じゃないか、私が見てみい、おれは病院中で四十六でさじ投げとるじゃないかと、思うごと行くならどうしてさじ投げると人間が、おれはもうつまらん投げとるじゃないかと、そぎゃーなあんた達なんか云う都合えーことに、先生までがそのー、威かすがごとずーと言わす、そぎゃーええことじゃんなん、云うていい気になっとる。
そりゃー甘木の先生は、私達には、病気でん治った、なんなーもー治った、そりゃー早過ぎた惜しい事した、といわっしゃる、自分なー一生懸命御祈念しよって、そう云う事を今考えると成る程なーちゅて、もしそげな事云うたら、さよならじゃん、それが本当な事ばやって今考えると、脾肉と思いよった所に、本当に病気が一番おかげ頂く、難儀が有難うて苦労が嬉しゅうならなーね、ならんとが何か参ったからおかげに成るとならもう行かんよ、これから参えれごも参れども努力すれども益々ね、生かさず殺さず行かれる所に、自我積みよるわけです、其れは何年か前までそりゃー、しやーせんでたかが知れ取る訳です、底が知れ取るじゃないか、そんなもんが何に成るですか、そう云う事を思うとるから根本が間違うわけです、私しゃーその青年その一番油の乗った頃、お前だん都合えー事云うたっちゃつまらんどーちゅて、何をしても良うない、言うのならたいした事が生まれて来よらにゃー、黙って俺に付いて来いと言われる、二十年前に私がやめとった所が、私は捨てたはずじゃった処が今考えるとですよ、私はこん人がおるけが、神様が今を二十四年前見越して、平田足を洗えと、お前さんが是うを手伝うとね、どんどん人に負けんように、設備投資やればあとはしまえぞと、ちゃんと二十四年前を見て神様が、席を引かせて今日を見らせて下さる。
一番私が勝負っとるじゃないか、此の三日のひも私は飛行機で東京に行ってきた、この由会館ちゅうのを私が立てようと思う、東京に三億五千万の額でね、それはまあー三月六日に落成式します、それま宴会に二百万使いますよ、新たにねそう云うそこでいったら、もう平田君、君が一番おかげうくるじゃないかちゅうてね、信用有る無しゃー解からんちゅて、ずーとカナダからアメリカまで行った時に私だけやったです、何処に行ってもちゃんと迎え来てもろーとるちゅうのは、教官から通じのええ事だから、皆此処におる先生まで出迎えされて居る、十何人の連れがたまがるも、俺時にゃー誰―れん来ちょらんじゃった、平田君だけ必ず、平田さーんておらぶ人がどこんでちゃー居るじゃないか、君は素晴らしい男じゃないか、そりゃーもー、サマランスかなんかね、大した待遇を受けた、其れ皆一緒にされたもんですから、私神様のご言うちゃる、俺ばこっちゃ神じゃない、神様は向こうに御座るちゅうに、そう云うふうにがらはならにゃーならんと思うですね、何にも私は作戦でも、自分が今日は此処だとさしてもらえば、そんなになるです、かなり笑われた時代がある、処が皆しまえたじゃないですか油屋さんは、設備投資、生産過剰で皆しまえとるじゃないげすか、私だけじゃん、しまえとらんとは、丁度時代に即応する事業をさせて下さる。
もう二十四年前から神様はその手を打って、今分かった、今日が来て良かったなじゃん、私はあくまでも捨てとった、詰まらんとこれは、是りゃーやめたじゃん、それ程違いますが皆さんどうですか、こう言うことを今日はゆっくり話したいけれどもですね、時間がだいたい、死にきらんばね家が気に成るごと、皆気に成るでしょう、それでもってあてこうどるじゃろ、此処に入ったら此処の枠に成り切りゃーいいけども、内の枠で此処に来とるじゃけー、内の枠をさーご飯炊かにゃー、さー子供がどーかこか、かわいい子を三人も置いて死ぬもんも居るとばい、死にきったらどんなかばって、死にきっとらんも、狸にならにゃー、狸に、狸なら死んだ真似しきるじゃろ、人間にゃまだ死んだ真似しきらん、私は神ちゅう字は、猿がころもを着ちょるとと思う、みようにかいちょる、神ちゅう字はあーた、猿に衣着せちょるむかし字は、だから私たちゃー、猿にゃーなりきらんけー、狸にならにゃーいけん、死んだ振りしきらにゃーいかん、死んだと思うてじゃろもん、思い変えがつかん者は、死人にゃなれん、思わるもんから先にね、死んだと思え、思い変えれば死人の基礎じゃもん、成れんから思い替えで行こうじゃん、死なれんから狸のごと死んだ振りせにゃーいかんとこ、其の時、其の時、今日は死んだふりする、風邪引いたでいいですよ、風邪ひいたらあんた何もかも手とるぐらいじゃろ、そーれが俺りゃー達者か思わるんくらいじゃ詰まらん。
そーげん人には付ける薬は無いじゃないですか金光教は、自分にどう言うものをはめるかと云う事をかっちりせにゃいかん、もーそればっかり習ろうた親先生から、親先生自体がそれで来てある、始めて参った時にもう、足元から鳥の立つ思いをしたという人だもん甘木の親先生、二十二歳の青年が始めて桂先生に接してもう其の日に、ビックリして御座る、あしもビックリしたじゃん、足元から鳥が立ったじゃろ、こりゃー当て違いが出来たと、親の事でからで願い来たけれども、こりゃー願う神さんじゃーねーばいと思うた、こりゃー今までのご無礼が願わにゃん事になったんだから、是は検討違いが出来たとビックリしたと云う人だもん。
そうーはならんでもよ、えーかげんにゃーならにゃーいかん、それをこう頑張っとる、成れるもんかこうするもんかと、俺の意見を通しゃー道楽じゃー、修行は向こうのペースに乗ることじゃろー、それが私は信用だと思う、俺のペースに乗そうと道楽に来とる、此処に皆んな、こうして下さい、どうして下さい、道楽でしょう我が思う事するとは、向こうのペースに乗る事が修行です、修行とは、相手に合わす無欲かなと書いてある、正確言うと、修行とは向こうに合わす無欲かなじゃん、欲が有れば出来ないんです。
辛抱は、不調子生かす努力なり、辛抱ちゅのは調子の良い時はいらん、不調子のことを生かすのを辛抱と云う、修行とは、向こう合わする、こっちに合わしょうとしてじーとしとる、棚の猫のごとこーして、腹の中はこっちは引っ張ろうとして神様を、向こうに添うじゃないか、だから皆道楽じゃけん、道楽と云うのは自分の思―たごとしよーとは道楽じゃけん、向こうに合わせる事は修行じゃ、神韻の中身は修行と辛抱だもん、そが二つが出来けん者んがなんなるですか、文句ばかりだらだらながれて、文句じゃねー、形じゃねー、魂の取引じゃ、こう私は自分に決めつけとる、皆さんに言う訳じゃない、自分に厳しゅうならにゃーなにもならん。
自分に勝たにゃいかん、己に勝つことじゃ、こっけせいじじゃ、自分を絞っていいものを出す、私は絞りつけとる油屋じゃから、いくら絞ったちゃ出らんやつも居る、含有量の少なかりやー出らん、だからね己を絞っていいものを出す事だもの信心と云うのは、神様を絞りきりゃーいいけど、どうして絞れますか神様、ね、おかしな言葉でやゆしてある、それは話の聞きようが足らんからそう云う事になる、手違いな、聞いた量行く手定める元力じゃもん、聞いた量が行く手を定める元力にならんならん、だから話を聞いて助かると書いてあります。
こう私は信じて居ります、こうテレビの映画じゃないけれども、いいとこで止めときましょう、此処でちょいと打ち切りまして、これからまー明日は私は長崎で、明後日が今度、神戸市の神戸のなんか尼崎に、そして翌日が大阪の大会、こう云う事になって非常に多忙でありますけれども、夕刻までは結構です、こちらに仮られた時間じゃから一つ、うんと買うてもらわにゃー、口答が鈍るならいかん、そりゃーもー捨てられたごたー非常に淋しいですね私しゃー、詰め掛けて大いに一つ取り組んでみろーとこー思うとりますがね、あーた達が逃げ腰じゃないね、わたしゃー頑張るよそいけん、一応の予約が夕方迄で十二時までは今日だからねー。
十二時までおったちゃ、いっちょんつらない、私はねーもー絶対やる、それだけが魂だもん、結局この人が偉うならにゃつまりゃせん、神様が偉うごとは決まっとる、神といえばもう最高と云う、そっちをてらこう云う事はいらん、此方がちゃんとせにゃーいくめい、電気があっても向こうの方に不純物がありゃー、引力ちゅうものはない、だから皆さん此方が正しくなれば、引きつけられる、神様から、それと同じです、ハンダ付けでも同じじゃ、向こうが錆とったら付くまいもん、いかに鏝を焼いてハンダを流しても、だから向こう錆を落として更に塩酸で、あそこをはっきりすれば解けあうじゃないか、一体化するじゃないか、いかに神があり人があっても、遊離しとりゃーなにがあるかと、手でもこうなるめーもんこう。
合わにゃならんこう(拍手)酒持って来いにならんもん(パン)こうこうしたんじゃ分からんもん(拍手のすれ違い)合わなきゃーどーにもならんじゃー、と私は思う、有難うございました。(拍手)